紛争解決


ふと思いつきました。


紛争解決の目的(特に親しい間柄の場合)は真実究明や正義、信賞必罰ではない。
和解なのだ。
そのためにはその紛争について互いに譲歩し、納得しなければならない。


そもそも、「神の目」など無いのだから、究明できる「真実」なんてものはない。



例えば、「AがBのお金を盗んだ」として、目撃者も証拠もなければ「AがBのお金を盗んだ」という真実は存在しない。
そうなれば法も警察も裁判所もAを罰することはできない。
さらに、Aには小さい子供がいるのに病気で働くことができず、生活するためにどうしてもお金が必要だった。
一方、Bはオレオレ詐欺で大金を騙し取って隠し持っていることを自慢げにAに話していた。
Aには「自分と子供の生活を守る」という「正義」があり、しかも「どうせBのお金は汚いお金」だから・・・という大儀?もある。
お金を盗んだAに、盗んだお金を盗まれたB。
罰することのできない司法。



また、C、Dという互いに唯一神を信仰する宗教があったとする。
C信者には彼らの唯一神という正義があり、D信者にもC信者とは別の唯一神という正義がある。
C、Dの間に「神は私の信仰する神しか居ない」と唯一神をめぐって紛争が起きれば・・・
互いの正義の下に譲歩しない両者はどこまで行くのだろうか?



では、「価値観の違い」という言葉を考えてみよう。
価値観が違うから争うのか?
価値観が違うと認識しているからこそ共存できるのか?
共存できるのは、互いの価値観を尊重し合うからこそ。
そのために必要なのは「真実」や「正義」ではなく譲歩。



譲歩のできる人間になりたい。
自分が「相手にとってこれが最善」と考えることでも相手にとっては、相手にとってこそ最善とは限らない。
そこで譲歩することは責任放棄とは違う、はず。


相手が自分にとって大切な人であればこそ、譲歩は難しいのかもしれない。